相馬野馬追とは

 福島県相馬市にある相馬中村神社、南相馬市にある相馬太田神社、相馬小高神社の合同例祭に合わせて毎年七月に開かれるのが相馬野馬追です。いずれも、かつてこの地を治めた相馬氏や、その起源と言われる平将門に由緒のある妙見神社です。かつては神事と祭礼が一体となって開催されていましたが、平成23年以降は神事と祭礼の日程が切り離され、祭礼は7月最終週の土曜日に開催されるようになりました。平成26年は7月26日(土)、27日(日)、28日(月)に開催されました。

 宵祭と呼ばれる初日の朝は、各妙見神社で開かれる出陣の儀式から始まります。詔を奏上し、祝杯をあげた後、甲冑姿の武者たちは馬にまたがり雲雀が原の本陣を目指します。相馬市の家紋である九曜紋をはじめとした多様な旗で彩られる中を、整然と隊列を組んで進み、雲雀が原には総勢五百騎にものぼる騎馬武者が集結します。これほどの騎馬が一堂に集うのは、国内の祭としては他に例がありません。初日のハイライトとなるのは、雲雀が原で行なわれる宵乗競馬です。白鉢巻に野袴、陣羽織姿という軽装で競うため、翌日の甲冑競馬よりもスピード感があり、力強い走りに圧倒されます。馬具も古式馬具が用いられ、手綱さばきは大坪流と、現代の競馬では見られない騎乗スタイルも見どころのひとつとなっています。宵乗競馬を終えた騎馬武者たちは、再び隊列を組み原町区へ移動。翌日の本祭りを前に夜の原町区では、盆踊りパレードや野外ステージなどが華やかに催されるのです。

 明けて二日目は、本祭り。花火と法螺貝、陣太鼓を合図に出発した騎馬武者は、時に立ち止まり、時に前進し、隊列を整えたまま雲雀が原へと移動します。この日行なわれるのは、祭のメインとなる甲冑競馬と神旗争奪戦です。いずれも、それぞれが属する神社を代表しての競技となっているため、技とプライドがぶつかり合う真剣勝負。甲冑競馬は初日の宵乗と同様に古式馬具、大坪流手綱さばきで馬を操り競われますが、重装備のため段違いの迫力があります。甲冑競馬を終え午後になると、神旗争奪戦へと祭は進みます。甲冑を身に着けた数百騎の騎馬武者同士が数本の神旗を奪い合うもので、その雄大さ、迫力は映画のワンシーンを思わせるほど。会場中の熱狂が冷めやらぬ中、本祭りの締めくくりとなる火の祭が執り行われ、二尺玉を含む約四千発の花火が打ち上げられます。

 各地区のプライドをかけて競い合った二日間を経て、迎える三日目。この日は多くの馬の中から神の思し召しにかなう馬を捕えて奉納する、野馬懸と呼ばれる神事が小高神社で開催されます。野馬懸ではまず、放たれた野馬を騎馬武者が境内へと追い込みます。境内に追われて暴れる馬たちの中に、お祓いを受けた御小人(おこびと)と呼ばれる若者が飛び込み、御神水(おみたらし)に浸した駒とり竿で一頭の馬に印をつけます。その後は、印がつけられた馬を御小人たちが素手で捕えるのです。最大の見どころはなんといっても、素手で馬を取り押さえようとする御小人と馬の格闘。初日や二日目の競技のような雄大さ、スピード感こそないものの、間近で馬と御小人とが体をぶつけあう姿には独特の迫力があります。最初に捕えられた馬は神に選ばれた神馬として、妙見神社に奉納されます。この神事を経て、三日間にわたった相馬野馬追は幕を閉じます。

■相馬野馬追の歴史

 かつて野生馬を野に放ち、敵兵に見立てて行なった軍事訓練が野馬追の起源と言われています。その歴史は古く、鎌倉幕府が開かれるより前から下総国相馬郡で平将門が行なっていたと伝えられています。鎌倉幕府の成立以後はこうした軍事訓練への取り締まりが強くなり、方々で行われていた同様の訓練は中止されましたが、相馬野馬追は神事としての側面も持っていたために継続を許されたのでした。

 相馬中村藩を治めた相馬氏は平将門の伝統を守り、捕えた馬を神への捧げものとして、氏神である妙見神社へ奉納しました。この習わしが神事と認められた所以であり、現在の野馬懸にも継承されています。

 しかし明治政府が戊辰戦争に勝利し、相馬中村藩は消滅。旧中村藩の野生馬がすべて狩られ、野馬追も消滅してしまいました。その後しばらくは相馬野馬追は途絶えていましたが、相馬太田神社が中心となって再興を図り、約十年の空白期間ののちに復活が叶いました。現在、本祭りとして多くの観客を熱狂させる甲冑競馬や神旗争奪戦などの要素が加わったのは、この復活よりあとのことと言われています。

■「相馬野馬追」公式サイト

・相馬野馬追執行委員会 公式ページ http://soma-nomaoi.jp/